【八甲田】雪中行軍遭難者銅像への行き方・見どころ観光情報


後藤房之介伍長の銅像八甲田山と聞くと、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか?私は真っ先に雪中行軍とか遭難とか、冬の凄惨な環境を思い浮かべてしまいます。

八甲田山という山は、実は存在していません。青森市の南方にそびえる火山性の山々が連なる山脈一帯を八甲田と称しています。秋の時期は非常にきれいな紅葉を見ることができます。秋の時期はドライブに行くことをおススメします。

また、奥入瀬渓流から八甲田を通り、青森へ抜けるルート上には温泉が多く存在しています。蔦温泉や酸ヶ湯温泉など、良質な天然温泉に宿泊するととても気持ちがいいものです。

しかし、冬は過酷な大自然に閉ざされた白銀の世界となります。白銀の…と聞くと、綺麗な美しいという形容詞になるので、あまり相応しくないかもしれません。雪のきれいな地域というより、雪に閉ざされた極寒の危険地域と言っていいでしょう。

日本海から吹き込む風が八甲田にぶつかり、すさまじい風と雪を生みます。この大自然が、かの有名な八甲田山遭難事件と繋がってしまいます。

世界最大の山岳遭難事件、八甲田雪中行軍遭難事件。青森第八師団所属の青森第五連隊の一部が八甲田へ行軍訓練のために入り、大自然のために壊滅した恐ろしい事件です。ちなみに、当時の第八師団長は立見尚文中将。司馬遼太郎さんの名作「坂の上の雲」でも登場。黒溝台会戦では、秋山好古とロシア軍と激戦を繰りひろげます。
第八師団長立見尚文

雪中行軍とは、その名の通り雪の中を進軍することで、要は寒い地域での訓練を行うという事を指します。実際に事件が起こったのは1902年(明治35年)の1月、背景には差し迫った日露戦争がありました。極寒の満州の荒野での戦争が予測されていたため、寒い地域での戦闘訓練が必要だったのです。

しかし、いかんせん地域があまりにも悪すぎました。現代でも1月は人が入れません。積雪は数メートルに達し、寒さと風に生物は生きていけないのです。そんな八甲田を行軍するというのは命がけです。しかし、結果として青森第五連隊参加の210名のうち死者199名。大自然が軍隊を壊滅させました。

この雪中行軍で生存した倉石一大尉ですが黒溝台会戦で戦死しています…。

自然の環境が軍隊組織を壊滅させるのは有史以来、珍しいことではありません。有名なところではナポレオンのロシア遠征。第二次世界大戦の東部戦線。そして八甲田。人類が自然を克服することはできないのかもしれません。

生存者の一人である、後藤房之介伍長は立ったまま仮死状態で発見されました。現在では八甲田の一角にその銅像が立っています。助かった者はほとんどが凍傷で手足の切断したと言います。

辨開凧次郎
当時雪中行軍に参加した青森第五連隊が遭難濃厚とみられると、第八師団は総出で救助・遺体収容をすすめます。興味深いのは、救助にアイヌ出身の人物がいたことです。

まさにゴールデンカムイに出てきそうな物語ですね。

辨開凧次郎(べんかいたこじろう)という人物で、アイヌの酋長をしていた人物。飼っていた熊に雄雌の子供が生まれた際に、村の老人にとても良い兆しであると言われたことから、この熊を時の皇太子明宮嘉仁親王(後の大正天皇)に献上したといいます。

そのお礼に、御所の松の木を賜ったというのですからすごいです。辨開凧次郎は北海道八雲町の人物。アイヌの人たちで捜索隊を組織して救助にあたってくれたことは忘れてはなりません。

雪中行軍遭難者銅像近くの茶屋
現在は道路も整備され、観光館内所や温泉ホテルもありますが、当時は人は踏み込まない地帯でした。現在は峠の茶屋があるのには時代の進歩を感じます。茶屋から整備された道を少し登ると、後藤伍長の銅像があります。こうした過去の教訓があるからこそ、私たち現代人は自然の恐ろしさを知るのです。

茶屋には八甲田雪中行軍記念館「鹿鳴庵」があり、当時の資料を見ることが出来ます。現在は防寒の衣類やホッカイロなど、文明の利器がたくさんあります。しかし、当時はただの毛糸の防寒着に”かんじき”(今の子は知ってる?)、いかに凄い試みだったかがうかがい知れます。

当時の貴重な資料がたくさん展示されています。200円で入ることができます。
八甲田雪中行軍記念館「鹿鳴庵」

この事件は山岳史に残る超重大事件として知られていますが、世に広めたのは新田次郎さんの「八甲田山死の彷徨」です。そして高倉健さん主演の名作、映画「八甲田山」です。

3月11日の東北大震災、熊本大地震。人間が自然の猛威に立ち向かうことはできないようです。映画「八甲田山」では、雪に阻まれて進むことも引くこともできません。そして、静かに倒れていく。どうして自然に人間が立ち向かわなくてはいけないのか?

そんな哲学的な疑問も浮かんできます。ぜひ今度考察を書いてみたいです。