政治に敗れた名臣・本多正純の最期の地|横手市の墓碑で知る改易の真因
はじめに
徳川政権の官僚中枢にいた本多正純。伝説の「釣天井」よりも、実は主従の面子と礼制をめぐる政治が失脚の核心でした。横手市の「本多正純墓碑」は、そんな真相を静かに語る場所。史料から“改易の理由”を深掘りしつつ、現地の見どころ、徒歩・車のアクセス、そして住宅地/駐車の注意を徹底解説。静かに、短く、丁寧に。地域に配慮して訪ねるための実践ガイドです。
第1章 本多正純とは何者か
1-1 三河・本多氏の系譜と家康の側近としての台頭
本多正純(1565-1637)は、徳川家の重臣・本多正信の嫡男として誕生した。父・正信は家康の謀臣として知られ、外交・内政の両面で徳川政権の基礎を築いた人物である。
正純は幼少期から家康に近侍し、実戦よりも政務・文治に才を発揮した。関ヶ原の戦い以後、家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が形成されると、正純は父とともにその中枢で動く。特に老中格の職務を任されると、内政・大名統制・寺社政策にまで関与し、家康・秀忠両政権にとって欠かせぬ存在となった。
彼の政治的スタイルは冷静沈着で、法理に基づく官僚型のものだった。しかし、時にその合理性が「融通の利かぬ頑固さ」と映り、後年の悲運へとつながっていく。
1-2 宇都宮藩主15万5千石へ—出世の頂点
元和5年(1619)、福島正則改易に伴う国替えの中で、正純は下野国小山5万3千石から宇都宮15万5千石へと加増された。家康の信頼の厚さを物語る破格の出世である。宇都宮城下の町割り・道路整備・普請の総指揮を執り、当時の関東防衛拠点として重責を担った。
しかし、本人は加増を固辞したと伝わる。忠義を示したのか、あるいは政治的配慮だったのか。その態度が“恩を軽んじた”と見られた節もある。出世の絶頂で、すでに亀裂の芽はあったのだ。
1-3 横手への配流と最期—墓碑建立まで
元和8年(1622)、正純は突然の改易を命じられる。理由は「奉公不足」――この言葉の意味こそ、後世の誤解を招いた最大の要因である。
宇都宮から領地を没収され、秋田藩佐竹家預かりの身となり、出羽国横手へ配流。屋敷の一郭を配所として静かに暮らした。寛永14年(1637)2月29日、73歳で没。墓は横手城跡南東の上野台にある。現在の墓碑は明治41年、地元有志の手により建立されたものである。苔むす石の静寂が、武士の栄枯盛衰を静かに物語っている。
第2章 改易はなぜ起きたのか—通説と史料を読み解く
2-1 「宇都宮釣天井伝説」と史実—仕掛けは存在したのか
「宇都宮釣天井事件」とは、宇都宮城の大広間に吊り天井を仕掛け、将軍秀忠を暗殺しようとしたという話である。だが、城郭史研究の成果では、このような仕掛けの痕跡は確認されていない。
この伝説は、幕府の権威を強化する過程で“裏切り者の物語”として創作された可能性が高い。講談や浮世草子により脚色され、後世に「釣天井=改易理由」という誤った図式が定着した。史実の正純は、暗殺など計画していない。問題はもっと政治的で、構造的だった。
2-2 11か条+追加3か条の嫌疑—糾問の中身
正純が改易される直接の契機は、最上家改易に伴う城受け取り任務の際、幕府使者による糾問であった。最初の11か条は弁明できたが、追加の3か条――①命令違反の処刑、②鉄砲の無断購入、③抜け穴工事――で釈明が通らなかったという。
しかし、これらは証拠の薄い“口実”にすぎなかったとする見方が強い。当時、正純は家康以来の古参として影響力が大きく、秀忠政権の若手側近層(土井利勝ら)には煙たがられていた。つまり、政治的排除のための形式的な罪状だったと考えられている。
2-3 「奉公不足」説—細川書状・梅津政景日記が示す真因
細川忠利書状や『梅津政景日記』など同時代史料を精読すると、改易理由は「奉公不足」と記される。ここでいう“奉公不足”とは怠慢ではなく、主君の命令・恩寵に対する儀礼的な不履行を指す。
正純は、福島正則改易に強く異を唱えた。さらに宇都宮加増を固辞し、後に上知(替地申立)を行い、幕府の顔に泥を塗るような形となった。法理に忠実であるほど、主従の情理から乖離していったのである。政治とは“正しさ”よりも“空気”で動く。その空気を読まなかったのが、彼の致命傷だった。
2-4 政治関係の悪化—諫止と拒絶の連鎖
家康の死後、秀忠政権は体制を刷新し、側近政治が加速する。正純は家康時代の功臣として距離を置かれ、彼の「理屈による進言」は新体制にとって煩わしい存在となった。
特に、福島正則改易の際に「恩ある武将を処断すべきでない」と諫めたことが、秀忠の逆鱗に触れた。さらに宇都宮受領を辞退し、拝命後も上知を求める――これら一連の行為が「奉公不足」「不遜」とみなされた。もはや糾問は形式にすぎず、粛清の空気は整っていた。
2-5 「由利転封」辞退が決定打—なぜ逆鱗に触れたのか
改易後、幕府は一応の温情として「出羽由利5万5千石」への再封を提案した。しかし、正純はこれを固辞する。
理由は「罪なき身が再封を受けることは、罪を認めるに等しい」という信念であった。だが、主君の恩命を拒む行為は、当時の政治儀礼では最大の不敬。これにより完全に秀忠の信頼を失い、佐竹家預かりとして横手に幽閉された。
この辞退は、彼の信義を示す行為でありながら、政治的には自滅を意味した。徳川政治の本質――“忠義よりも形式”――を象徴する事件である。
第3章 横手市・本多正純墓碑の見どころ
3-1 墓碑の構成と案内板
横手城跡南東の上野台斜面に、正純と子・正勝の墓碑が並ぶ。黒みがかった角石で、表面には「本多上野介正純之墓」と刻まれている。
案内板には一首の歌が紹介されている。
「日だまりを恋しと思ふ梅もどき 日陰の赤を 見る人もなく」
配流先の陰鬱な暮らし、世を遠く見つめる静寂がにじむ一句だ。墓碑脇には明治41年建立の記念碑もあり、横手の市民がいまも花を供える。
3-2 横手城跡との位置関係と地形
横手城公園の展望台から徒歩10分ほど。緩やかな坂を下りると、杉木立の中に石碑群が見えてくる。周囲は静まり返り、鳥のさえずりと風の音だけが響く。
観光地的な派手さはなく、むしろ“静けさこそが見どころ”だ。城郭の外郭に位置するこの地形は、配流屋敷の立地を思わせる。往時、ここで正純がどんな思いで日々を過ごしたのか――その想像が自然と湧いてくる。
3-3 住宅地の中にある史跡—静粛・配慮・駐車の注意
墓碑の位置は住宅地の一角にある。私道・生活道路が入り組み、朝夕は住民の通行も多い。訪問時は声や撮影音量を控え、立ち入りは案内板の範囲内に留めること。
駐車スペースは住宅敷地に隣接しており、アイドリングや長時間駐車、路上駐停車は禁止。必ず指定のスペースまたは公共駐車場を利用しよう。
特に冬季は積雪で視界が悪く、子どもや自転車が通る。安全確認と周囲への配慮は欠かせない。史跡を守るとは、地域の生活を守ることでもある。
第4章 アクセスと歩き方・季節のポイント
4-1 公共交通+徒歩/タクシー
JR横手駅から徒歩約30分、タクシーなら10分前後。道中は緩やかな上り坂で、夏場は熱中症に、冬場は凍結に注意が必要。
徒歩の場合は、横手城公園方面に進み、案内板を目印に。スマートフォンの地図だけに頼ると住宅街の細道で迷いやすいので、現地案内板を併用すると確実だ。
4-2 自動車での訪問—駐車・積雪注意
車で訪問する場合は、周辺公共駐車場か指定スペースを利用。路上駐車や私有地前の停車は厳禁である。
冬は雪が多く、道幅が狭まる。四輪駆動・冬タイヤ装着が望ましい。積雪期の夕方は視界が悪化するため、日中の訪問をおすすめする。
駐車中もアイドリングストップを守り、エンジン音を抑えて静かに。地域住民との共存意識が、史跡保全につながる。

4-3 併せて巡る周辺スポット
横手城公園展望台からは鳥海山が望め、春は桜、秋は紅葉が美しい。横手市かまくら館や横手郷土資料館も徒歩圏内。
歴史好きには、墓碑→城跡→展望台という順で巡るルートが人気。配流地の静寂と、城下の賑わいの対比を感じられる。
第5章 よくある質問(Q&A)
Q1. 「宇都宮釣天井」が改易の原因なの?
A. いいえ。釣天井は講談的な伝説であり、史実では確認されていません。改易の本当の理由は「奉公不足」とされ、福島正則改易への諫止や宇都宮拝領辞退、上知申立など、主従の儀礼を乱したことが原因とされます。
Q2. 墓碑は観光地っぽい? 写真撮影はOK?
A. 墓碑は住宅地に囲まれた小さな史跡です。撮影は可能ですが、音や立ち入り範囲に注意し、長時間の滞在は避けましょう。周辺は静かな住宅街であり、地元の生活に配慮が必要です。
Q3. 車で行くときの注意点は?
A. 駐車は指定スペースのみ。住宅の敷地と隣接しており、路上停車・アイドリングは禁止です。冬季は積雪による視界不良もあり、昼間の短時間訪問が安心です。
まとめ
本多正純の改易は、「宇都宮釣天井」という派手な逸話より、はるかに政治的で現実的だった。家康側近の重臣が、代替わり後の新体制で“面子と礼制”に配慮し切れず、福島正則処分をめぐる諫止、宇都宮拝領の固辞と上知申立、普請未成などの蓄積で「奉公不足」と見做され、最後に由利5万5千石の代命辞退が逆鱗となった。物語の主人公のような陰謀ではなく、権力中枢の空気を読み違えた官僚政治の破綻だった、と理解できる。横手の墓碑は、その静けさに反して、そうした“権勢の頂と末路”を深く語る。史跡は住宅地の一角にあり、駐車も含め静粛・短時間・配慮が最優先。歴史に敬意を払い、地域の暮らしにも敬意を払うこと。それが、正純の無念と誇りに向き合う唯一の作法だ。






