江田島市の軍艦利根資料館への行き方・見どころ観光情報


軍艦利根資料館

軍艦利根資料館は、江田島市にあります。1945年の呉空襲で、大日本帝国海軍の重巡洋艦利根は江田島湾で大破・擱座しました。現在は江田島湾の沈没場所近くに、軍艦利根記念館が建っています。

呉市からは、車で約50分ほど。国道487号線から県道44号線に入れば簡単につくことができます。軍艦利根記念館は、能美海上ロッジという施設の近くにあります。県道44号線から横道に入る必要があるのですが、わかりにくいかもしれません。能美海上ロッジでカーナビ検索していくといいかもしれません。

朝早い時間に行くと、見学者が誰もおらずに資料館内に入ることができない場合があります。そんな時は、能美海上ロッジのロビーの係りの方に声をかけるといいでしょう。鍵などの管理を能美海上ロッジさんが管理しているのかどうか定かではありませんが、開けてくれます。

大日本海軍の重巡利根は、旧海軍が建造した最後の重巡です。分類的には怪しいところはありますが、詳しい説明は置いておき・・・とにかく戦間期の最新鋭重巡だったのです。そのシルエットは非常に特徴があります。主砲の連装砲をすべて前甲板に配置し、後甲板は水上偵察機のデッキに当てた設計となっています。

第二次世界大戦から太平洋戦争が始まる前、各国の海軍は一大変革期を迎えていました。それは大艦巨砲主の終焉。つまり、空母機動部隊の興隆が始まろうとしていました。しかし、各国海軍はそう簡単にドクトリンや政略・戦法・装備を変更することはできません。航空機の優位性を認識しながら、おいそれと新しいものに飛びつくほど軽率な行動変換は取れなかったのです。

日本海軍も同様に、戦艦中心の戦法・漸減作戦・機動部隊の運用の狭間で苦悩しました。そんな時代に誕生したのが利根型重巡洋艦です。当時の列強海軍は戦艦や空母同様に重巡洋艦の運用にも苦悩しました。雷撃能力・船団護衛能力、何を重視しどのように近代戦術に組み込め場良いのか分からなくなってしまったのですね。

しかし、旧日本海軍は利根型の導入によって、ある種の方針を見出しました。それは索敵能力の付与です。着弾観測はもちろんのこと、水上偵察機は当時の大型艦艇には一般的に搭載されていました。しかし、日本海軍は索敵能力の強化という力を利根型に与えたのです。

これは旧海軍の伝統でもある、フィリピン沖での漸減作戦でも空母機動部隊の運用でも、広い大洋上で敵を早期に発見するという目的のために十分に意味のあることでした。事実、利根は僚艦筑摩と共に、南雲機動部隊の目となり活躍します。当初の期待通り、十分な索敵の能力、安定した火力、そして優秀な操艦性を発揮しました。主砲が前甲板に集中しているため、砲弾の散歩界も狭く、艦橋も船体の中央部にあるため、操舵も容易だったと言います。

実は、個人的にも利根は非常に好きな艦です。たぶん私の連合艦隊のお気に入りランクの中でも1、2を争います。というのも、吉田俊雄さんという戦艦大和についての著書を多く残した有名な方がいます。その中で、かのレイテ沖海戦のおり、シブヤン海で武蔵が沈んだ時の記述です。

度重なる空襲によって、武蔵はボロボロ。魚雷20発、爆弾18発を受け、それでも武蔵は浮いていたと言います。はっきり言ってここまで被弾して沈まないなんて狂気の沙汰です。対空砲火はもはや虫の息・・・。艦首に被弾し、大穴があいて速力を失ったところをやられたのです。もういっそのこと、一思いに沈んだほうが楽なのかもしれないと思うほどやられても、武蔵は浮いていたといいます。

軍艦利根慰霊碑
栗田司令部も猪口敏平艦長も武蔵をもう諦めていたそうです。往き脚はわずかに2ノット。栗田艦隊は武蔵をあきらめ、他の艦艇はスプレーグ少将の護衛空母群を追って突撃します。もはや戦闘能力を失った武蔵にとどめを刺そうと、航空機が群がります。

しかし、駆逐艦清霜と重巡利根だけが、もはや静止状態に近い武蔵の周りをぐるぐる回り、必死に対空砲火を放ち、武蔵に群がる敵機を追い払っていたと言います。その話を読んだだけで、もう感動。

軍艦利根資料館内には沈没現場から引き揚げられた資料など多くが展示されています。沈没現場のすぐそばにあるので、慰霊碑と共に訪ねてみるといいでしょう。