戦艦陸奥の歴史を残す資料館が山口県周防大島町にあります。陸奥記念館として、戦艦陸奥が1943年に沈没した地点の近くに建っています。
戦艦陸奥は、姉妹艦の長門と共に日本海軍の象徴として、連合艦隊の最新・最強の戦艦として誕生しました。世界のビック7の1隻として、日本国民に親しまれた戦艦でした。
連合艦隊旗艦の経験もあり、大和・武蔵が誕生するまでは、まさに日本海軍の象徴だったのです。
しかし、主力艦としての戦績は寂しいもので、太平洋戦争はほとんど戦いを経験していません。空母機動部隊と潜水艦の戦術にシフトしていった時代、戦艦に活躍の場はあまり与えられていなかったのです。
陸奥は激戦が続いていた1943年の6月8日に、連合艦隊の根拠地であった呉近海の柱島沖に停泊中、原因不明の大爆発で沈んでしまいました。艦長以下、多くの乗組員が艦と共に沈んでしまいました。
沈没場所に近い屋代島にある陸奥記念館には、沈没場所から引き揚げられた陸奥の副砲や船体の一部が保存されています。陸奥にまつわる資料が多いので、マニアの方には是非行ってもらいたいですね。
場所は、山口県の周防大島。電車も通っていません。すなわち、必然的に車で行かざるを得ません。バスもとおっていますが、本数も少ないので、レンタカーで行くのがベストです。
今回管理人は、広島県広島市の駅近くでレンタカーを借りました。国道2号線を走り岩国市まで行き、瀬戸内海の海沿いを走る国道188号線に乗り換えます。瀬戸内海ののどかな海を眺めながらのドライブはとてもいい気分です。
しばらく走ると、屋代島に渡る橋が見えてきます。屋代島へ渡り、国道437号線をひたすら東に走れば陸奥記念館があります。
江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を見学した際、案内してくださった方が興味深い話をしていました。陸奥が沈没した当時、近隣の漁師の方も兵士の遺体を収容したりしていたそうです。海軍からすれば、日本の象徴である陸奥が沈没してしまったことは最重要軍事機密でしょうが、隠しきれるものでもなかったようです。
死体は、周辺の島々にも流れ着き、放置しておくこともできないので、供養して焼いて弔ったと言います。
しかし、その後、近隣の漁師さんは、自分で釣った魚を焼いて食べることができなくなったそうです。海の中の魚が遺体を食べていたかもしれず、特に死体を焼いたときの臭いと、魚が焼けた時の臭いが同じに感じてしまい、とてもではないが食べれる気にはなれなかったそうなのです。
陸奥の沈没で亡くなった将兵は1100名以上にも上ります。今でも陸奥の一部が瀬戸内海に沈んでいます。後世に生きる私たちは、供養することしかできません。何とも生々しい話を聞きました。
日本の主力艦は停泊中の爆発事故が多い。陸奥だけではなく、かの三笠も停泊中に爆発事故を起こし大破着底しています。
陸奥の爆発事件の真相は今でもはっきり判明してはいません。一番現実性があるのが主砲弾の点検中の事故という説ですが、それもはっきり信頼できるものではないのです。第三砲塔の爆発が原因という事は判明していますが、360トンもある砲塔が艦橋と同じ高さまで吹き飛んだという当時の証言もあほどの大爆発だったようです。
船体も沈没しており、戦中だったこともあり精密な事故原因の調査も出来なかったようです。つまりは原因は闇の中。そのため、陸奥爆沈事件には創作物がつきもので、映画や小説でもフィクションとして取り上げられるのも少なくありません。
以前、横浜駅の地下の本屋で戦史もの本を立ち読みしていると、見知らぬ年輩の方が話しかけてきたことがあります。戦中世代か、ただの軍事マニアか分かりませんでしたが、話し相手が欲しいのだと思い適当に軍事話をしました。
すると、自分はかつて陸奥に乗っていたと語りだしました。沈没直前に下船し、難を逃れたそうです。話していると、この方も爆発の原因は弾薬整備中の事故だと言っていました。なんで知っているんだこの人?と疑問に思ったという経験があります。
あれから10年ぐらいたちましたが、今その陸奥が眠る海を眺めると、なんだか少しばかりの因果を感じます。