広島県呉市の戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑の行き方・見どころ観光情報


戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑

呉市では日本の連合艦隊が誇った戦艦群が多数沈没しています。沈没というより、水深が浅いため、すっぽり艦橋まで海の下の水面に沈むのではなく、船体が海底に着底して身動きが取れなくなって、そのまま終戦をむかえました。船体が海底に接着してしまい、船体や主砲、艦橋は水面から出ている状態です。舟が海底や浅瀬にのりあげた状態を擱座(かくざ)といいます。

かの戦艦大和の目標は、沖縄の浅瀬に大和をのりあげさせて擱座した状態にするのが目的でした。大和自体を要塞に見立てて、艦砲で海上や陸上の米軍を攻撃しようとしていたのです。もしくは、兵員が大和船内に立てこもり、徹底抗戦をするハラのようだったそうです。

呉市では戦艦榛名、伊勢、日向などの戦艦群が米軍の攻撃を受けて擱座しました。動かす燃料もなく、空母機動部隊の前に戦艦はあまり活躍できなかった時代だったのです。

1945年、呉市の音戸町坪井地区の岸壁に戦艦伊勢は係留されていました。レイテ沖海戦を生き抜いた伊勢は、まともな作戦行動がとれない為、浮き砲台として放置されていました。1944年のレイテ沖海戦には、主力の栗田艦隊には編成されず、小沢冶三郎の機動艦隊に組み込まれていました。

フィリピンに侵攻してきた米軍撃滅を意図した捷一号作戦における小沢機動部隊の役目はただ一つ。囮となって米空母部隊の主力、ハルゼー機動部隊を北に吊り上げることです。小沢艦隊は米軍主力の凄まじい航空攻撃にさらされます。結果、小沢艦隊の空母部隊は全滅。しかし、随伴していた伊勢と日向は執拗な航空攻撃にもひるまず、何と生還を果たします。

当時の伊勢艦長、中瀬泝(なかせのぼる)大佐の操艦は巧みで、回避回避に成功します。相棒の日向と共に、日本に帰ることができました。しかし、1945年の7月28日、連合艦隊の根拠地であった呉は米機動部隊の大空襲に見舞われ、ついに伊勢は大破・着底してしまいます。この時、伊勢の2番砲塔には三式弾が装填され、最大仰角で発射されたといいます。伊勢の最後の主砲発射が、日本海軍最後の大口径砲の射撃だと記録されています。

現在の呉市の音戸町坪井地区には、戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑が立てられています。戦艦日向は、また別の海域で擱座してしまったのですが、姉妹艦だからでしょうか、一緒に弔われています。

戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑は、坪井地区自治会館の裏(?)にあります。道路を挟んで海のすぐ傍で、おそらく伊勢の沈んだ海の目の前にあるようです。坪井地区自治会館は、正直どういう施設か知りませんが、中庭みたいな場所に碑が立っています。正直、かなり分かりにくい場所にあるので、見つけにくいかもしれません。

戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑に行くまでには、国道487号線を車で走ります。ところが、付近には駐車場が例によってありません。

うどん大吉

しかし、戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑の近くに「うどん大吉」さんというお店があります。うどん屋さんから徒歩数分で、戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑に着きます。私が訪ねた時は、ちょうどお昼時だったので、うどんを頂きました。東北人の私にとっては、関西の薄口だしのうどんが非常においしく感じました。

その後、うどん屋さんに車を置かせてもらい、歩いて坪井地区自治会館まで歩き、戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑を訪ねました。戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑は道路を挟んで砂浜が広がっており、自衛隊の艦船が停泊しているのが見えます。伊勢の子孫たちは、今日も日本の国防を担っているのですね。瀬戸内の海は非常に穏やかですが、1945年は激しい戦闘が行われている歴史と、今の海上自衛隊の艦船が停泊している光景をみたら、何となく感慨深いものがありました。

国道487号線を呉方面から江田島方面に向かう途中、坪井地区には桟橋や堤防があります。戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑は住宅地の中にあるため、車を停める際は気を付けるようにしましょう。桟橋や堤防の付近は空き地になって車を止めて釣りを楽しむ方々が多くいらっしゃいます。その付近に駐停車してもいいかもしれません。

しかし、本当に止めていいのかは定かではありません。ちゃんと迷惑にならないようにしないといけませんね。しかし、瀬戸内の海は本当に素晴らしいです。東北の荒い海しか知らない私にとっては、戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑の近くの堤防から、のんびり釣りを楽しむ人たちが非常にうらやましいと思ってしまいました。